『ファイ phai φ 人文論集鳥取 電子版』は、遥かな未来への緩やかな移行。小舟の後ろの、扇状の航跡。さざめき戯れる、無限のさざ波。

web01_k

<エッセイ>
川島健二「宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』をめぐって」

space

 1.はじめに―草色の文庫本

 今、手元に草色の函に入った一冊の文庫本がある。旺文社文庫の『宮沢賢治詩集』である。1960年代に出された旺文社文庫は、文庫として珍らしく函つきで、中学生の頃、伝記中心に何冊も買い揃えた覚えがある。その後函は消え、カバー付きのものに変わり、やがて旺文社文庫自体がなくなってしまったが、今でもなつかしいシリーズである。が、この『宮沢賢治詩集』は、私には格別大切なもので、旅の思い出が鮮やかに付着している。目次のページを繰ると余白に「川嶋健二様 昭和四六、三、二九 宮沢清六」のサインがある。清六さんは宮沢賢治の弟で、賢治亡きあと、遺品や遺稿を大切に守り、あの膨大な『校本宮澤賢治全集』の刊行に尽力した人である。私はその人に花巻の自宅であった。もう45年も前のことになる。

 2.清六さんとの出会い

 その年大学の春休みを利用して北海道旅行を計画したのだが、旅の途中花巻で下車した。今のように新幹線もなく、群馬の実家を出て東北本線を北に向かう旅は、ゆっくりしたものだった。東北地方に赴くのも初めてで、どこかで下車したいという気持が働いたに違いない。しかしなぜ花巻だったのか。『春と修羅』にはふれていたが、賢治の童話作品にはほとんど無縁で、熱心なファンとは決して言えなかった。が、途上の花巻と賢治は記憶の中で直結していて、気まぐれな下車となったのだろう。
 駅を下りると、「宮沢賢治記念館」のような施設があるに違いないと思い、人に訊ね、その場所を教えて貰った。ところが、訊ねてみると板塀に囲まれたその家はごく普通のたたずまいで、記念館らしきものは見当たらない。少しとまどいながら門をくぐり、玄関の前に立った。声をかける勇気もなく、しばらくウロウロしていたのかも知れない。と、家の奧から初老の男の人が現れて、こちらを怪しむ様子もなく、優しく「お入りなさい」と声をかけてきた。そして招き入れられ、玄関のすぐ近くにある応接コーナーの椅子に座った。私は大いに困惑していた。ただ北海道へ行く途中に下車して「宮沢賢治記念館」(実際に開館したのは1982年である)を見学して、いくらかでも賢治の臭いにふれられればそれでよい、と思っていただけである。それを賢治と縁のあると覚しき家に上がり込んで、見知らぬ人と対座している。何を話せばよいのか。私はその人に思い切って訊ねた。「ところであなたは賢治とどういうご関係の方でしょうか」と。「弟です」と清六さんは答えた。清六さんは、多分あきれていたことだろう。訪れてくるのは熱心な賢治ファン、そういう人は賢治作品を世に伝えるために献身的な努力をしている清六さんの存在を知っている。この若者も、そうした一人に違いない。しかし話してみるとそうではなさそうだ。それでも清六さんはおだやかな表情を変えることなく相手をしてくれた。
 そこで賢治の詩の感想など話したのかもしれないが、覚えていない。突然の賢治の弟さんとの対面にうろたえ、言葉を見つけるのに必死だったのだろう。ただ、二つのことを覚えている。一つは、言うに事欠いて、というのが実情だったろうが、私は清六さんに向かって「天沢退二郎の『宮沢賢治の彼方へ』という本が出ていますが、あの影響で賢治がよく読まれるようになったのでしょうか」と口ばしっていた。思い出しては顔を赤らめてしまうような問いである。天沢の著書は、その頃友人の間で話題になっていて、知的ファッションの趣があった。今でもその本は読み通せていない。清六さんは、それに対して即座に「いえ、そうではありません。賢治は時代を超えて読み継がれているのです」と答えた。天沢作品を読んでいても愚問であったが、読まない知ったか振りの問いに清六さんの言葉は痛く響いた。ちなみに、私が宮沢家を訪ねた1971年は宮沢、天沢、入沢康夫の三氏を中心とする『校本宮澤賢治全集』の編集作業が始まろうとする年であった。

 3.新たな農民の共同体構想

 もう一つ賢治の『農民芸術概論綱要』のことを話題にした。当時、農民の土地を収奪して空港を作ろうという国家権力に対する抵抗運動、成田三里塚闘争が加熱していた。それに対しては私もおだやかならざる思いで、闘争に加わることはなかったが、三里塚に足を運んだりもしていた。賢治の羅須地人協会に象徴される新たな農民の共同体構想、ユートピア(と思われる)運動にも関心があり、通読したことはなかったが『農民芸術概論綱要』のことも知っていた。清六さんに向かって、三里塚闘争のことを話題にし、その流れの中で賢治の農民運動とのつながりなどを問いかけていたのは、私なりの切実感からだった。この問いにも、さぞや清六さんは困惑したことだろう。三里塚闘争と賢治の運動とのつながりは皆無とは言えないにしても、やはり直結するものではない。こちらの性急な問いに清六さんの反応ははかばかしいものではなかった。
 どのくらい話したか。さほど長時間ではなかったろう。退出しようとすると清六さんは、「綱要のコピ-があったはずだからあげましょう」と奥に入って探してくれた。けれども見つからない様子で、しばらくして文庫本を手にして現れた。「代わりに差し上げましょう」と差し出されたのが、今、手元にある草色の『宮沢賢治詩集』だった。この若者は賢治作品にあまり親しんでいないようだ。賢治の世界にふれてほしい、といった思いが清六さんによぎったのかもしれない。サインして頂いた本には、名前のあとなに郵便番号と花巻の町名と番地も印されている。礼状を書くつもりで、お願いして書いてもらったものだ。私は宮沢家を出たあと、羅須地人協会のあった下根子桜の地を訪ね、北上川の流れを眺め、また賢治が教鞭をとった花巻農学校(現花巻農業高校)を見て、北上する列車に乗った。旅はこうして印象深い出会いから始まった。しかし、結局私は清六さんに礼状を出すこともなく、北海道旅行の高揚感に全面的に占拠され、賢治への関心も微温的なものにとどまるばかりだった。

 4.もう一つのサイン

 あれから45年。こう書いて、長い歳月がいとも簡単に過ぎてしまうことに驚かざるを得ないのだが、最近『宮沢賢治詩集』に、もう一つのサインが加わった。清六さんの孫、宮沢和樹さんのサインである。和樹さんに45年前に清六さんから頂いた詩集を差し出すと、和樹さんはなつかしそうに清六さんのサインを眺め、「澤ではなく沢なのですネ」と名字の漢字に目を止めて言った。確かに清六さんのサインは「宮沢」だった。和樹さんに頂いた名刺は「宮澤」だった。私は清六さんとの出会いを孫の和樹さんに話せただけで満足だったのだが、とっさにサインして貰うことを思いつき、申し出ていた。和樹さんは「祖父と並んででは」と困惑しつつも、このムチャブリに応えてくれた。4月9日足利市立美術館(栃木)での出来事。和樹さんは同館で開催中の「画家の詩、詩人の絵」展(6月12日まで。のち北海道立函館美術館へ巡回)に、所蔵する賢治の絵を出展、記念講演「祖父清六から聞いた兄宮沢賢治―絵画について―」のために来館していた。展覧会は絵画と詩の関係について深い省察を促す強度の高い作品が多く、意欲的な試みだった。賢治の絵四点はいずれもA5判程度の小さなもので、よく知られた「日輪と山」を目にすることができ、幸運だった。富士山型の山に日が輝き、その頂きに不思議な光が当っている。画用紙の上端に開けられた画鋲の穴からは賢治の部屋までが想像されるようだった。和樹さんの講演は、賢治や清六さんとの距離感がほどよいもので、清々しく思われた。時にその表情に賢治がいて、ハッとさせられもした。講演の中での、あの「雨ニモマケズ」の中「行ッテ」は菩薩の行(ぎょう)とも考えられるという指摘には目を見開かれるものがあった。「法華経」の常不軽菩薩の実践はデクノボーの原像で、賢治の思想の根幹にあるということも思い出された。
 ところで45年前の花巻での体験を和樹さんに話していて、愕然とさせられることがあった。下根子桜で地人協会の建物を見たとばかり思っていたのに、実際そこには 建物はすでに存在していなかったというのである。農業高校の方にすでに移築してあり、そこで見たはずという。記憶の変形作用、構成作用の力か、いつの間にか建物は、高校の敷地から元あった場所に移動し、記憶の中に定着してしまった。記憶のあやういトリック、記憶には過去の変わらぬ映像が保存されているのではなく、想起されるたびに新しく構成されるというメカニズムを思い知らされることであった。
 さて、予定していた「綱要」にふれないままスペースを埋めてしまった。和樹さんに会って、理解を深めることもなく過ぎてしまった「綱要」について、あらためて考えてみようというのが小論のモチーフであった。少しふれてみたい。

 5.羅須地人協会

 賢治は花巻農学校を1926年、30歳の時に退職し、羅須地人協会を作る。「羅須」の語源には諸説あるが、「地人」という捉え方がより興味深い。農民ではなく地人。そこで賢治は畑を耕し、集まった農学校の卒業生や農家の青年に農業科学や芸術の講義をする。また近くの村へ出向いては肥料設計や稲作指導に応じ、夜には楽団や劇団の活動を実践する。新たな農村文化の創造、生産協同体の試みとも言えるが、賢治の多忙、粗食などの無理がたたり、二年余りで終焉を迎える。
 「綱要」は羅須地人協会の思想的バックボーンとして用意されたものと見てよい。「綱要」の目次とスローガンを記した「農民芸術概論」と「綱要」の中の「農民芸術の興隆」の項の細かなメモを印した同名の論の三つが残されている。
 「綱要」を通読して、その高らかなメッセージに喚起力の高い詩を感じたが、すでによく知られたフレーズの出所の多くが、ここにあることを感慨深く思った。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」「農民芸術とは宇宙感情の 地人 個性と通ずる具体的なる表現である」「無意識から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である」「職業芸術家は一度亡びねばならぬ」「個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ」「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」「詩人は苦痛をも享楽する」(新潮文庫『賢治万華鏡』「綱要」から)これらの言葉を読んだだけで賢治の思想の芯にふれたような感じがしないだろうか。中村稔はこれに対して「純粋な情念と、壮麗な理想に心を惹かれ、心を惹かれながらも、「農民芸術概論」における方法論の貧しさに目を瞠らずにはいられない。」(『宮沢賢治』)と厳しく指摘している。「方法論の貧しさ」確かにそれは言えることだろう。賢治は「農民芸術の興隆」の中でメモ風に注意すべき人の名を挙げていて、その中にイギリスの工芸家ウィリアム・モリスがいる。そして自身の「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」の言葉のあとに、モリスの「芸術の回復は労働に於ける悦びの回復でなければならぬ」を引用している。モリスから学んでいることの一つの証左ではあろうが、モリスからの影響ばかりで賢治を見ることもできないだろう。二人の差異に着目した吉本隆明の言葉は貴重である。「宮沢賢治はモリスのように社会組織の革命の全体的構造のうえに、ユートピアが成立つという着想を全くとらなかった。」「かれには社会的な構想も政治的な構想も具象的になったことはなかった。ことはすべていってみれば「心理学」上の構想に属したというところにこそ、宮沢賢治のユートピアの重大さがあったのである。」(吉本隆明『悲劇の解読』)吉本の言う「心理学の構想」には中村の言う「方法論上の貧しさ」とは違った賢治への評価の眼がある。では、それはどのようなことなのかと言えば、<察知>の能力であると吉本は見る。「<察知>できる能力を身につけることによって「灰色の労働」だけではなく、日常の生活の諸作のすべてもまた芸術として感覚できるようになる。これが彼のユートピア構想の要めであった。」(吉本、同上)察知の能力がユートピアを支える。賢治の思想を見事に射当てた言葉ではなかろうか。

 6.宇宙・人・自然の交響

 動物や植物の登場する賢治の童話(たとえば「鹿踊りのはじまり」や「いちょうの実」)を読んで、しばしば感じられるのは、言葉をしゃべる彼らは、決して擬人化されたものではないということである。動植物を人間の側に引きつけて声を聴くのではなく、動植物の方へ歩み行って声を聴く。だから賢治の作品に響きわたる声は、文字通り自然の声なのである。むろんこれは動植物に限らない。人はもとより自然現象にも当てはまる。「綱要」の中には「風もゆききし、雲からエネルギーをとれ」という言葉もあり、同様の表現は別の場所でも見出せる。詩〔あすこと田はねえ〕の「…雲からも風からも透明な力がそのこどもにうつれ…」や「生徒諸君に寄せる」の「新たな詩人よ 嵐から雲から光から 新たな透明なエネルギー を得て 人と地球にとるべき形を暗示せよ」など。これらも<察知>の能力と関連づけてよいだろう。察知する能力それは交響する力と言い得るだろう。宇宙と人と自然とが交響する世界、賢治のユートピア映像に揺れ動くものをいくらかでも掌中にすることができるだろうか。
 ここでもう一度「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という「綱要」の中の言葉を思い出そう。私は長い間これを「世界ぜんたいが」と誤読していた。宮沢清六さんの『兄のトランク』を読み、気付かされた。迂闊なことであった。確かに違う。「世界ぜんたい」では「世界」への問いが稀薄になる。「世界が」と言えば問いが生れる。「世界という意味の考え方がちがうのです。賢治のいっているのは地球だけのことではないのです。宇宙全部、過去、現在、未来。あの「農民芸術概論」の場合は、まちがいなく、いちばん広義の世界をいっているわけです。」(『兄のトランク』)一見、空疎に響きかねない賢治の言葉を、深く汲みとった清六さんの声であろう。
 さて「農民芸術概論綱要」をかいなでた程度で一区切つけなければならない。あの羅須地人協会時代とは賢治にとって何だったのか。私は、ユートピアに近づくため、自身の力で走行し、持てる限りの能力を全面展開しようと闘いつづけた賢治の姿を思い浮かべる。そして修羅と菩薩との間をたえまなく往還しつづけたのが賢治の生涯ではなかったか。

space

【執筆者紹介】川島健二(かわしま・けんじ)1950年群馬県邑楽町生まれ、邑楽町在住。民俗学。著書に『柳田國男を読む』(共著1995年アテネ書房)、『「青」の民俗学―谷川健一の世界』(共著1997年三一書房)、『沖縄を読む』(共著1999年状況出版)など。論文に「水平線上のバッハ」(2000年冊子版『ファイ第2号』コンパス社)、「笑う花袋、怒る柳田」(2001年『田山花袋記念館研究紀要』)、「中央関東文化論」(2012年群馬県立館林美術館図録)、「極端の根源を生きる―熊楠・正造の中のスサノヲ」(2014年足利市立美術館『スサノヲの到来』展図録)など多数。講演や詩人吉増剛造氏、現代美術家、小説家などとの対談も多数。

space

『ファイ phai φ 人文論集鳥取 電子版 No.1』:川島健二「宮沢賢治『農民芸術概論綱要』をめぐって」


a:695 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional